「ひきこもり」だったわたしに、両親がしてくれたこと【沼田和也】
『牧師、閉鎖病棟に入る。』著者・小さな教会の牧師の知恵
その後、わたしはカウンセリングに通い、そのなかで調子を少しずつ取り戻し、自分にやれそうで、さしあたり負担も少なそうな道を見いだすことができた。それが関西学院大学神学部受験という選択肢だったのである。
‘何事にも時があり 天の下の出来事にはすべて定められた時がある。
生まれる時、死ぬ時
植える時、植えたものを抜く時
殺す時、癒す時
破壊する時、建てる時
泣く時、笑う時
嘆く時、踊る時
石を放つ時、石を集める時
抱擁の時、抱擁を遠ざける時
求める時、失う時
保つ時、放つ時
裂く時、縫う時
黙する時、語る時
愛する時、憎む時
戦いの時、平和の時。
人が労苦してみたところで何になろう。 ‘
(コヘレトの言葉 3:1-9 新共同訳)
わたしは10代の終わりと20代の前半の、二度にわたってひきこもりを経験した。しかし当時を振り返って気づいたことがある。それは、母からも父からも「あんた、これからどうするの」と急かされたことが、一度もなかったということである。我が家は決して裕福ではなかった。父は高卒のサラリーマンであり、母も夏は暑く冬は寒い倉庫でパートをしていた。わたしをいつまでも家にひきこもらせておく余裕などなかったはずである。しかし母も父も、わたしが話しかければ率直に答えてくれたし、わたしが一人になりたいなら放っておいてくれた。「もうちょっと勉強したら」と小言を言うことはあったが、決してしつこく繰り返さなかった。
これを「あなたは甘やかされたのだ」とみる向きもあろう。だが、わたしはこう考えている。すなわち、わたしの両親は、わたしを待っていてくれたのだと。